大河ドラマ【青天を衝け】第三話では、渋谷栄一が14・15才ながらいよいよ商売への才覚を発揮し始めます。今回のシーンでは、渋沢家の家業である藍の色や海の色、空の色と青い風景がとても美しい映像でした
また栄一は、日本の未来や自分の未来に対して前向きにやる気を持ち始め、周りに頼りにされたいと奮闘していることと対比し、江戸幕府の徳川慶喜は周りからの期待に対し頼りにされたくなく、自分の未来に対してやる気を見出せない様が印象的でした。
二人の人生が交わった時、歴史はどう動いたのかさらに楽しみになった回でした
青天を衝け~栄一、仕事はじめ
◆血洗島の渋沢家に多くの職人が集まり、藍のすくも造りが始まりました
乾燥させた藍の葉を水を打ちながら混ぜ合わせて、発酵させ何度も繰り返します
発酵を始めて、およそ100日すくもが出来上がります
このすくもを液状にすると、美しい青を出す染料になります
栄一たちは青い染料で美しい藍色の布を無事作りました
◆栄一は江戸に連れていってもらえることになり、さてどうなるのか?
◆シーン代わり「こんばんは、徳川家康です!」家康が気軽に登場し海外からの来訪者を紹介
マルコポーロ、ウィリアム・アダムス(三浦按針)、
そして、、
マシュー・ペリー(アメリカ海軍、東インド艦隊司令官)が日本に向かってくるのか。。
アヘン戦争で清国が攻められる様を描いた本が日本人に強い危機感を与えていた
◆栄一は呉服店に販売するために江戸にやってきた
この頃、江戸は世界でも最大規模の都市となっており100万人近い人たちが暮らしていた
江戸の街は商人が作っていると商人への道に憧れを膨らませる栄一であった
平岡円四郎とすれ違う、平岡円四郎は後に栄一と徳川慶喜を結ぶ重大な人物となっていく
◆シーン代わり、江戸城では・・
第十二代将軍の徳川家慶が体調不良となっていた
徳川慶喜に実父の方である徳川斉昭の方が自分より優れた君主だと陰口を叩く者もいて、比較されることで嫌いだったと家慶がぼやくが、慶喜のことはとても大事思っていたことを伝える
◆三か月後・・異国の船がくると広がる(浦賀への黒船来航である)
清国が敵に乗っ取られた本は本当だったと、日ノ本(日本)も太平の世として平和に暮らしていられない、日本が乗っ取られないように人心をひとつにして戦わないといけない時が近づいてきている
徳川斉昭は幕府に大砲を献上した
斉昭は外国船を打ち払うことを強行に主張し、黒船に怯えていた民衆は斉昭に期待する
将軍である家慶の体調は戻らず、危機的状況で日本の将軍が動けない状態だった
◆黒船来航の10日後、第12第将軍の徳川家慶が亡くなった
江戸幕府では、徳川の跡継ぎである徳川家祥の元、次にペリーが来た時にどう対応するべきか大名や幕府勇士にまで都城を明示、書面にて広く意見を求めた
幕府は、徳川斉昭の隠居処分を解き海防参与という役職を与えた
◆攘夷への動きは、武蔵の国にも影響を与え・・
砲術家である高島秋帆が釈放された
岡部の罪人として捕まっていたが釈放されたのである
『誰かがこの国を守らねば、この国は終わる』
『俺が守ってやんべぇ、この国を』
栄一が周りの人たちのために、日本のために励むきっかけとなった出逢いであった
◆村の藍葉が虫にやられる事件が起こった
あちこちの藍葉が虫にやられ、村の藍葉ではすくもがたいして作れず遠くから藍葉を急いで買い付ける必要がある
栄一は頼りにされて、村を助けたいと奮闘するが期待されていない子ども扱いするとぼやく
◆シーン代わり、江戸では徳川慶喜が当てにされても困ると実父である徳川斉昭に伝える
福井藩主である松平慶永(越前守)も徳川慶喜が世継ぎになり将軍となることを望んでいるが、慶喜本人に野心がなくその気がない
斉昭は、誰か慶喜を傍で支える人はいないのかと探すようになる
◆血洗島の村では、栄一が藍葉を買い付けにいくことを許してくれるように母へお願いする
悩みつつも栄一に藍葉を買いにいかせる決断をする
ひとり栄一は藍葉の買い付けを任され、遠くの村に買い付けにきた
◆栄一が村で藍葉を買い付けることはできるのか・・
栄一は父親の仕事をよくみて藍葉についての知識をつけており、藍葉を作っている農家の人たちからどんどん信頼を得ていく、栄一の鋭い観察眼と会話により、買い付けは順調に進んだのである
ある農家でしめかすを使えていない農家に、しめかすが使えるように通常より高い価格で購入、先行投資するようなかたちで藍葉を購入した、しめかすを使った立派でたくさんの藍葉を来年は自分に売るように来年の約束も取り付けた
栄一はひとつの村からだけで、坪21軒の藍葉を無事買い付けられたのである
◆家で、購入した藍葉を父親に見てもらい・・
栄一は父親に藍葉の購入を認めてもらえたのである
栄一はこの国のために、これからも励んでいくと心に誓う
◆一方、江戸では、一橋家が徳川慶喜への直言の臣の役として
平岡円四郎が任命された
茨城県水戸市・斉昭が築いた「偕楽園」と「弘道館」
・徳川斉昭は、藩主から武士、民衆までみんなが楽しめる場所として【偕楽園】を作り、学問に励み研究する場所として【弘道館】を作りました
偕楽園
偕楽園は、「日本三名園」のひとつとされています
江戸時代天保13年(1842年)7月に、水戸藩第9代藩主の徳川斉昭によって造園されました
◆偕楽園へのアクセス:水戸駅南口より徒歩10分
弘道館(水戸市)
弘道館は日本遺産に認定されています
他藩にも影響を与えた水戸藩「水戸学」の藩校教育の拠点として、徳川斉昭は藩政改革の一環として弘道館(藩校)を設立させました
日本最大規模の弘道館では、武芸の鍛錬の他に儒学、医学、天文学など幅広い教育がされていた
敷地内に牛を買い、バターを作る研究もされていた
第15代将軍の徳川慶喜も斉昭の教育方針に倣い、5歳から英才教育を受けていた場所です
今でも、徳川慶喜が幼少期に学んだ部屋である至善堂が残されています
また八卦堂には、弘道館の精神を記碑した石造が収められていて(家臣、藤田東湖による草案)
この記碑の文の中で、幕末に流行した尊王攘夷という言葉が始めて用いられたものだと言われている
斉昭の直筆で尊攘と書かれた書も収められており、明治維新への原動力にも繋がる【尊王攘夷思想】がこの地から全国に広がっていったのです
◆弘道館へのアクセス:水戸駅(北口)から徒歩8分
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