NHK大河ドラマ:青天を衝け(第六話)3月21日【栄一、胸騒ぎ】

大河ドラマ
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第六話、栄一の胸騒ぎとはなにか。。

安政の大地震で藤田東湖が亡くなってしまい、徳川家は江戸幕府はどうなるのか。

水戸はどうなっていくのだろうか。

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青天を衝け「栄一、胸騒ぎ」第六話

徳川家康がさっそく登場!

息子の徳川頼房の紹介、家康が61歳の時の子どもとのこと

7才で、日立の国・水戸に25万石を与えた、水戸家は皇室を大事にした

水戸は毎年、領地で取れる一番鮭を必ず朝廷に献上して親密な関係を築いていた

頼房の息子、光圀も主君は京の天守様であると徳川一門挙って敬うべしと話していた

この光圀は水戸黄門のモデルとなった人物でもある

この尊王の思想は、全国に広がっていき多くの武士に読まれた水戸学の本にも

『孝を東照公、忠を天祖』と記載されており、つまり「わたしに尽くし、天皇に尽くす」のである。

この水戸学を書いたのは、安政の大地震で亡くなった水戸藩の学者”藤田東湖”であった

藤田東湖は、9代目水戸藩主の徳川斉昭の精神的な支えであり、息子の慶喜も東湖から多くを学んだ

地震で藤田東湖は亡くなってしまい、水戸藩を支える人物がひとり去ってしまった

藤田東湖が亡くなった噂は、(渋沢栄一が住む地域の師匠)惇忠の元にも伝わっていた

国の命運が決まる時期に、徳川家は束ねる人物がいなくなっていた

藤田東湖がいなくなったことで、一人一人が国のために何をなすべきか考えるようになっていった

渋沢栄一や喜作も何かを成し遂げると意識が高まる、そして仲間に伝蔵が加わった

農民も武道を習い、学術を習い、常に己を磨く

栄一たちの仲間の中では、長七郎が一番武道に秀でていた

「実の戦は、如何なるところで始まるか知らない。

天を仰ぎ、血の断りを知れ。どんな不利な足場であろうと剣を振り出す。

それができなければ、死ぬ」

長七郎の妹、千代が栄一への恋心を思わず伝えてしまう、栄一もまんざらではない

栄一の心がざわざわとしだす、胸が動き出す

江戸の水戸藩邸では、藤田東湖を亡くした徳川斉昭が悩む。斉昭の妻、吉子が斉昭に声をかける。

一橋家の屋敷の補修が済み次第、地震で先延ばしになっていた徳川慶喜の結婚を執り行うとのこと。

先将軍や父斉昭の勧めで、徳川慶喜の嫁に迎えられたのは公家、今川家の姫君”美賀君”だった

まだ若かった徳川慶喜は美賀君に興味を示さなかった

また、地震の影響で嫁入りが遅れていた篤君、後の天璋院が江戸の薩摩藩邸に嫁いできた

篤姫が嫁いだ第十三代将軍の徳川家定は奔放で、子宝にも恵まれずにいた

一橋の徳川慶喜を将軍にしたい周囲の気持ちが高まる

福井藩士の橋本左内が平岡円四郎を訪れる

「一橋様(徳川慶喜)がどれだけ将軍に相応しいお方か、私共に御身の周りをお教えいただきたい」

とのことだった。

平岡円四郎と妻のやすは徳川慶喜の将来を楽しみにするのだった

しかしながら、徳川慶喜は嫁をもらったが、姫君の美賀君と一度も床を共にしないとの噂が流れていた

慶喜の育ての親である徳信院と美賀君との関係は上手くいかず、徳川慶喜と美賀君の関係も仲深まらず

やきもきした関係が続いていた

そして、港を開いた下田で幕府にも一大事が起きていた

アメリカ合衆国の代表として、貿易を求めてアメリカ総領事の”タウンゼント・ハリス”がやってきた

通商条約を結ぶまでは、下田に居座ると申していた

国を開くべきか、外国を追い出すべきか、決断が迫られていた

頼りにならない公家(将軍)の代わりに、

実質実権を握っていた老中首座の”阿部正弘(伊勢守)”は開国すべきときが来たのではないかと悩む

水戸の徳川斉昭は断固として、開国を拒否していた

また、異人を将軍に謁見させることも拒否していた

朝廷にご報告し、日ノ本をひとつにしなければならないと考えていたのである

水戸が何よりも朝廷を重んじていたが上の考えであった

徳川斉昭は朝廷に異国が開国を迫っている事実を伝えてしまった

断固として外国と戦うのみと捉え藤田東湖がいない今、徳川斉昭の行動を止めるものは家臣にはいない

“尊王攘夷”思想が広まる、争いが絶えなくなっていた

唯一、徳川斉昭を止められるのは、実の息子である徳川慶喜と慶喜の兄で水戸党首の慶篤だけ

二人は徳川斉昭に政(まつりごと:政権)から退くように申し伝える

そんななか

栄一は得意先で”力石”の持ち上げを競い合って力を蓄えていた

得意先では、藍玉も売り商いへの力も身に着ける

そして、道場破りが栄一たちの村にも訪れた

この頃、攘夷の気軍と相まって武芸が盛んになり、

腕に自信がある若者が他流試合を挑む、道場破りが流行っていた

道場破りをしてきた、北辰一刀流の門人である真田範之助は、

武者修行の帰りに尾高長七郎という強者がいると聞き勝負にきたと言う

喜作、栄一と挑むが歯が立たない

他流試合は真剣勝負と同じ、技の錬磨もない、勝つか負けるかのどっちか

そして、尾高長七郎が挑む。この闘いでも長七郎は強かった

闘い後、男たちはお酒を飲みながら盃を交わす、日ノ本はこのままでいいのかと話す

下田の港は異国ばかりで、この夏にはアメリカの異人がもっと開国するようにと住みつき

近いうちに実際に開国する予定となっていることを話す

攘夷思想が強く広まっているため、外異は撃つべしとの思想が強い

日ノ本の神を仰ぎ、異敵を打つとする”尊王攘夷”の心が江戸の流行りだと栄一たちにも伝える

千代がお酒を運んできた

道場破りの真田は、運んできた千代に少し想いを寄せた

栄一や喜作は驚き、戸惑う。長七郎に剣で勝ったものにしか千代はやれないと惇忠が言う

栄一も喜作もさらに戸惑う。栄一は千代への想いに戸惑っていた。

そしてその想いが恋であることをまだ気づいていない。。千代と栄一の歯がゆい関係

そんななか、徳川慶喜と美賀君との関係も動揺が広がっていた

慶喜との関係も一橋家でも思うようにいかない美賀君が自殺未遂を図ったのである(実話のよう)

それでも、慶喜の心は動かない

◆安政四年(1857年)、年が明けて斉昭は新年には必ず皇族出身の吉子(斉昭の妻)を上座に座らせ盃を交わしていた

東湖亡き後、水戸は乱れ、党首の慶篤は気がやさしすぎで斉昭の暴走を止められない

斉昭は許しもなく、勝手に朝廷に徳川の内情を話し困った状況になっていた

斉昭も威勢のいいことを言ったかと思えば、酷く気落ちする時もあり体調も優れない様子

水戸は徳川よりも天守(朝廷)を何よりも重んじる

斉昭は徳川慶喜や慶篤に言う『これは義光(徳川光圀)以来、代々引き継ぐ我が水戸家の掟である

我らが御三家、御三卿として徳川の政(まつりごと)を助けるのは当然のこと、しかしもし万が一

何かが起こり、朝廷と徳川が敵対することがあった時に、徳川宗家に背くことはあっても

決して天守様に弓を引くようなことがあってはならない』

この後、体調が優れないこともあり徳川斉昭は政から退くことになった

老中首座の伊勢神(阿部正弘)も体調が優れない様子。

ハリスの応対に追われている中、薩摩や越前より徳川慶喜を一刻も早く将軍の跡継ぎにするように

迫られているとのこと。

伊勢神が慶喜に言う、

『この国は変わろうとしている。お父君や我が世が終わり、新しい世が始まろうとしている』

扨、渋沢家周辺では、長七郎が江戸に行くことになっていた

先日道場破りに来た、千葉道場の真田に腕を田舎で眠らせとくのは勿体ないと勧められ、江戸まで武者修行に行くことになっていた。尾高の家は惇忠が請け負うから行って来いと行かせてもらえることになったようだった。

喜作は長七郎に、江戸から戻ってきたら勝負を挑むと伝えた

長七郎に勝って、お千代を嫁にもらうという

それを傍で聞いていた栄一の心がまたざわつく。

栄一がひと休みをして、しょんべんをしていると馬乗りをしていた徳川慶喜がやってきた

栄一のしょんべん中の横に並んで、慶喜も一緒にする。

ふたりの人生が交差し始めている

そして、幕府では軍艦整備、薩摩などの朝廷への動き、問題を多く抱えている中で

ついに老中首座の伊勢神が倒れてしまった

いよいよ慶喜は動き出すのか、栄一も動き出すのか

江戸末期の静岡県下田市

静岡県の下田市は、江戸末期・外国人を受け入れて貿易を交わしていた港のひとつです。

ペリー艦隊来航記念碑

静岡県の下田市海岸には、ペリー艦隊来航の記念碑が置かれています。

http://shimoda-city.info/tourism/perry.html

◆ペリー艦隊来航記念碑へのアクセス◆

静岡県の伊豆急下田駅より徒歩15分

玉泉寺

アメリカの外交官だったハリスは、港に近い玉泉寺に領事館を構えた

ハリスは通訳のヒュースケンと一緒に日本(下田)に3年も過ごしていた

ストーブを置くために開けた穴が今も残っています

開国、間もない日本の貿易の基礎を築いたハリスは、その功績に感謝してハリス記念碑として

渋沢栄一が、境内に記念碑を建立しました。

栄一は史跡保存のため、玉泉寺の大修繕を支援して復元させました。

栄一が支援した修繕の時に本堂の屋根がかやぶきから銅版ぶきに変わりました。

◆玉泉寺へのアクセス◆

伊豆急下田駅より海岸を沿って歩き、徒歩約27分

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