栄一の恋ごころは叶うのか、江戸幕府の次の将軍は誰になるのか・・
先週突如現れた井伊直弼が江戸や日本をどうしていってしまうのか時代が代わっていく回です
青天を衝け「栄一の祝言」第八話
先週の続きから、栄一が神社で千代を見つける
栄一が言う「俺はお前が欲しい」と。
言われた千代が泣き出す「ごめんなさい」
「悲しいのではなくて、ずっと嫌われたかと思ったもんだから、ほっとして」と。
栄一が「なぁ、もうちょっとしゃべってもいいか」と、ふたりの仲が戻った
栄一は旅の話を千代にする。
「お千代にも見せてあげたかったなぁ、あの青。
険しい山道だった、俺も兄いも商いに行ったってのに、詩が読みたくて寄り道して
どんどんどんどん山の中に進んでいった。ずーっと上まで登って気がついたら
岩だらけのところを這いつくばって登っていた。後悔した。
だけど、そこにはその苦労をしないと見れない景色があった。
ぐるりと俺を中心に、周りすべてが見渡す限りの美しさだった。この世にこんな景色があるのかと。
特に空一面の青だ。藍の青さとも、谷の水の青さとも違う。すっごい青が広がっていた。
俺は、おのれの力で立っている。そして青い天にこぶしを突き上げている。
霧が晴れて、道が開かれたように感じた。俺の道だ。
人は弱いばっかりではない。強いばっかりでもない。
藍を造って、百姓といえども多いに闘ってこの世を変えたい。
その道をお千代と共に・・」
っと話していたところに、喜作がやってきた。
喜作に届いた長七郎の手紙に「お千代を嫁にもらいたいなら俺ではなく、栄一と勝負しろ」と書かれていたのである。
「栄一、俺と勝負しろ」
喜作と栄一の剣の勝負が始まった。
剣道場には、人がたくさんありふたりを見守る。
ふたりの力は互角でなかなか勝負は決まらない。
まわりの人たちが応援をしている中で、ひとりの情勢が紛れ込む。
その女性が、「喜作さん、きばって(がんばって)!」と声をかける。
その流れにのって、まわりの人たちも喜作がんばれーと声あげる。
喜作の勢いが増す、栄一が押され始めたところで
千代が「栄一さん、きばってーー」と声をあげた。
栄一にも力が入る。だが、あとちょっとのところで刺し違えるように栄一が負けてしまった。
惇忠が言う「そこまでー!この勝負わずかながら喜作の勝ち!」と。
実践なら刺し違えた互角の勝負だった。
喜作が立ち上がり、言う。
「千代、あいつは俺の弟分だ。見ての通り実にまだまだの男だ。そのくせ、この世を変えたいなどでかいことを言う。あいつには、お前のようなしっかり者の嫁がいた方がいい、この先あいつの面倒をみてやってくれ」
喜作は言い切り、栄一に「幸せにしろよ」と言って立ち去った。
途中で応援に入ってきた女性が喜作を追いかける。
惇忠は状況がわからず「どういうことだ」と困惑していると
栄一が姿勢を整え、懇願する。
「兄、お千代を俺の嫁にください。」
惇忠はさらに困惑「栄一ががお千代と・・」
栄一「兄ぃ、俺はこんなだがきっとお千代を幸せにする、だからだからお願いします。」
惇忠「しかし、お千代は・・」
お千代が言う「兄さま、千代も」と。
惇忠「なんだ、お前たち想いあっていたのか」と安堵したように
「栄一は俺の同士であり、可愛い弟分だ。そういうことなら、認めぬわけにはいかないだろう」
こうして、栄一とお千代は祝言をあげることになった。
さて、喜作はというと先ほど道場で応援していた女性”よし”、以前助けた人の姉と仲良くなり、また嫁に迎えることになったのである。
徳川家康、登場。
赤い兜。井伊の赤備え
関ヶ原で一番槍を上げた、井伊直正は徳川の世を創るのに貢献した。
時が経ち、井伊家15代当主となったのが井伊直弼である。
14男に産まれた彼は、跡継ぎの道も遠く”茶の湯””和歌””能楽”に夢中になり、茶歌ポンと呼ばれていた。
この頃幕府では大きな問題を抱えていた。
将軍の世継ぎを誰にするか。
英邁と評判の【徳川(一橋)慶喜】か正当な血筋の紀州藩主の【徳川慶福】か。
そして、この闘いで一番槍をあげるのが【井伊直弼】だった。
第十三代将軍の徳川家定に気に入られた井伊直弼は、突如大老職を任されたのである。
第十三代将軍「井伊掃部頭の大老職に大老職を申す。掃部頭と一致同心の上、励むように」
井伊の大老就任は、誰も予想しなかった突然の抜擢だった。
“大老の器ではない、この異国との一大事に西洋諸国のことも何もしらず務まるはずがない。”
井伊直弼も状況は理解していた
徳川慶喜に新しい将軍となってほしいと、日ノ本をまとめてほしいという意見が増えていた
第十三代将軍の徳川家定に、井伊直弼は
「大老として拙く周りに信頼を得ておらず、水戸のご老公にも嫌われている」と申すが、
家定は「斉昭が越前や薩摩と手を組み、己の息子を世継ぎにしようとして公儀を我がものにしようとしている」と、斉昭がはかりごとをしているという。
家定「安部はわしに何も話そうとしなかった。将軍とは名ばかりで、政はすべて蚊帳の外。
誰もわしのことをみておらず。父上はどうであったかの。父上が見ていたのは、、水戸の慶喜だった」
そもそも家臣が世継ぎに口を出すこと自体が不届きなのだ。
大奥と井伊直弼は家定の声に答えることにし、お世継ぎは血筋が近い紀州様がよろしいと思うと勧めた
将軍お世継ぎに、紀州様を押すことを井伊直弼が申す。
老中首座の堀田正睦(備中守)は、「お言葉なれどこんにちは天下に人身不安のとき、勉強して懸命なるお方を将軍にすること急務ではないか」と申すが、井伊直弼が家定の命への強硬な姿勢を示す。
紀州を盛り立てることになった。
そして、井伊直弼による一橋派への弾圧が始まった
一橋慶喜を将軍世継ぎにと、建白した川路聖謨(かわじとしあきら)は留守居役にお役替えされた
井伊大老はまわりより避難されるようになっていった
“茶化ポン、実力なき家柄だけのおとこ・・・”
しかし、周りの避難とは裏腹に安政五年(1858年)6月19日、ハリスと交渉を重ねていた岩瀬忠成らは、日米修好通商条約に調印した。
これは、天皇や朝廷の意見に背いた、明らかな罪である違勅であった。
この違勅の締結を井伊直弼も把握していなかったが、
水戸の徳川斉昭をはじめ、周りの避難が過激になる要因となるには十分であった。
斉昭「井伊を退け、次なる大老に越前殿を迎えて政を立て直すのだ」と声をあげる。
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