NHK大河ドラマ:青天を衝け(第五話)3月14日【栄一、揺れる】

大河ドラマ
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第五話は、津波、地震、疫病と現代にもつながる話が多く、さらに宗教に結婚にと盛りだくさんの話でした

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青天を衝け「栄一、揺れる」第五話

先週、栄一は代官にお金を渡し承服できないと今週もまだ立腹していた

いとこの喜作や尾高惇忠に相談すると。。

ここで、また徳川家康が登場!

もともと士農工商の制度は、武士と農工商に大きな境があり線引きされていた

それが徳川の時代に世間全体で不信に感じ始め、江戸幕府の世が揺らぎ始めた

栄一は尾高惇忠に借りた本を無心に読んでいた

農民でも栄一たちは武道に勤しみ、本を読み海外と日本の情勢に関して未来に揺れていた

そんな中、渋沢家では栄一の姉なかの結婚が決まりそうだったが、結婚相手が憑き物筋だから狐が憑いてきて渋沢の家に狐が憑くから破断にした方がいいと親戚に言われていた

結婚を破断した方がいいと言われるようになった頃から姉の様子が可笑しくなり、

やはり憑き物がついたのではないかと周辺では狐の祟りをお祓いする拝み屋を読んだ方がいいという意見も出てきていた

父親も栄一も憑き物についたわけではないとは理解していたが

姉の様子がどんどん不安定な状況になり、結局のところなかの結婚は破断となってしまった

その頃の江戸では、黒船の来航により多くの疫病が流行り、様々な迷信が流行るようになっていた

また江戸では未だペリーとの条約に対してどう対処するべきかを揉めていた

徳川斉昭が異国嫌いで追い出そうとしているところを藤田東湖が間に入り、斉昭の激情をなんとか抑えていた

そんな中、下田沖で大地震が起こりロシアの船が転覆した、日本人・外国人関係なくけがや被害にあった人を助け合っていた

◆藤田東湖は周囲から厚い信頼をされ頼りにされる人物だった

いろんな人が藤田東湖の元に訪れた、相談を受けていた

徳川慶喜も徳川斉昭も親子ともに藤田東湖を頼り、東湖がうまく間に入ることでお互いを認識することができていたのである

渋沢家では、まだ姉のなかの調子が戻らないため栄一は姉を心配し様子をみていた

尾高長七郎たちは武芸に励むなか、姉を心配し後をつけておかしなことにならないか見張っていた

どうやったら姉の気が晴れるのかと栄一は悩む

偶然あった尾高千代に、

「縁談が決まった時に姉のなかはどんどん美しくなりとても嬉しそうにしていた」と言われる

その結婚が破断になった影響は大きいと言われ、栄一は恋心とはおっかないなと思うが、千代に

「強く見えるものほど、弱気者です。弱気者とて強いところもある。人は一面ではない」と諭された

栄一の父は、あまりに姉のなかの気分が晴れないために、一緒に少し遠くまで商いに出ようと誘った

翌日、藍玉の集金周りになかを連れて出かけて行った

栄一の父やなかがいないうちにと、叔母がお祓いをしてくれる人を呼んでしまった

なんとも胡散臭い人たちがお祓いを始める

しぶしぶと栄一もお祓いの儀式に参加するが、

祟っているとか、無縁仏がいるから祠を建て拝みたてるようにと言われ

栄一は黙っていられないと、得意の口を挟む

神様もどきの偽物に、間違った年号を言わせて追い出すことに成功した

「人の弱みにつけこむ神様なんか怖くない、うちの姉さまもそんなに弱くない

得体の知れないもので、一家を惑わすのは金輪際断る」と伝え追い出したのである

その栄一の様子を栄一の父と戻ってきていた姉の中も見ていた

自分を信じてくれた栄一の姿をみたなかは気分も晴れ、無事にいつもの姉に戻っていた

そして、その年の秋・・・・

【安政2年10月2日(1855年)】

藤田東湖は、安政の江戸大地震に遭い死去した、享年50歳だった

地震当日、東湖は家老の岡田兵部宅へ藩政に関する相談をするために訪問し、中座して自宅に戻った際に地震に遭遇した

地震発生時に東湖は一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻りその後を追って、落下してきた鴨居から母親を守るために自らの肩で受け止めた

救出に来た兵部らの助けもあって何とか母親を脱出させたが東湖自身は母親の無事を確認し力尽き、下敷きになって圧死したと言われている

このころ、江戸では地震が頻繫に起こっていました。

水戸藩の小石川邸は、もともと埋め立て地であり耐震性も良くなく被害は大きかったことでしょう、人格者であり仲裁に入っていた藤田東湖がいなくなった水戸藩はこの後さらに大変な事態へと進んでしまいます。もし藤田東湖が地震で生きていたら、水戸藩の惨劇はもう少し良い方向に進めていたのかもしれません。

第五話のタイトルの通り、怒りに津波に地震に、迷信にと揺れた回でした。

神道無念流

渋沢家や尾高家の人々も習っていたとされる神道無念流は、

剣術だけでなく学問も重んじ、後に明治時代に活躍する人材を輩出した

試合の記録には、渋沢栄一や喜作、尾高新五郎(惇忠)の名前が残っている

尾高長七郎は、江戸に修行しに行き剣術を磨いていた

大川平三郎翁記念公園(大川道場跡)

◆アクセス:鶴ヶ島駅から🚙車で10分

栄一たちが学んだ神道無念流の跡地、埼玉県坂戸市

鹿島神社

栄一が通った道場は鹿島神社の近くにあり、鹿島神社の境内では試合が行われたとも伝わる

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